それから二時間ほどばかり、砂漠を歩いた末。

 二人はミサト国へと辿り着いた。辺りを見回してみて、果たして先のリンの発言が誇張では無かった事が分かる。街の中心を走る大通りには様々な露天がひしめき合い、往来の人通りが激しい。そこかしこに飾られた色とりどりの花が見目にも鮮やかだ。

 美里や小蒔の自己紹介には違和感を感じていたものの、こうして同じ名を冠する国の情景を見てしまった今となっては、それも納得できてしまう思いだ。「美しい里」――名は体を現す、というのはこの事だろう。

 田舎から出てきたおのぼりさんのように、あちこち見慣れぬ景色に目を奪われていると、突如後方から掛った力にのけぞった。危うく頭から転倒というところを、何とか踏みとどまる。どうやら、マントの裾を踏まれたものらしい。踏んだ相手は気づいていないのだろう、既に姿が人ごみの中へと紛れる所だ。

 一言文句を言ってやろうと振り向いた人ごみの中に――しかし一際異彩を放つ人影を見つけて、京一は思わず声を挙げた。

 黒のフード、小柄な体躯の女性。
 いや、それよりも何よりも決定的なのは、彼女が全身から発するどす黒い怪しげなオーラだ。京一の声にリンが驚いて振り返る。

「どうしたの、キョウイチ」
「い、いや。……何でもねぇ。きっと気のせいだ」
「?」

 不思議そうに首を傾げるリンの横を通り過ぎるようにして、京一は先ほどの人影が歩み去ったのとは逆の方向に歩みを速めた。

 そうだ、自分は幻影を見たのだ。ここは異世界なのだから、あいつがいるわけ……とそこまで考えて、背後にいる筈のリンの存在を思い出した。居ても不思議は無いのか。

 思い当たった可能性にげっそりとしていると、前方から穏やかではない物音が響いてきた。見れば、店先で尻もちを付いている少年がいる。

「とっとと帰れ!」

 怒りも露に、顔を赤くした恰幅の良い男が声を荒げている。恐らくは店の主人だろう。
 一方の少年はというと、歳の頃は13,4といったところだろうか。枯れ木のような細い体に、ボロを纏った風体で地面に手をついている。上げた面(おもて)は病人のように青白く、腕は梢のように細い。しかし、店主はそんな事にはお構いなく、少年へと罵声を浴びせ続けた。

「うちは王室御用達の由緒ある店なんだ。お前みたいな"名無し"に売るものなんて、砂糖の一欠片もありはしないんだよッ」

 少年を遠回しにして見物していた通行客たちは、しかし店主の口から出た「名無し」という単語を聞くや、顔色を変えた。戸惑いを見せる者、汚らわしいものを見るように眉を顰める者、侮蔑の嘲笑を口端に浮かべるもの――どれも良い感情では無いのは明らかだった。

「さあ、お前がいると女神さまの怒りを買う! 早く何所かに失せろ!」
「……お、お願いです。お金は用意しました……。病床の母に栄養のあるものを食べさせたいんです。売って頂けたら、直ぐにいなくなりますから。だから、どうか……」
「ふん、名無しを生むような女だ。どうせ碌でも無い事をしたんだろうよ。そんな女、死んだ方が世の中の為なんじゃないか? なぁ?」

 そうだそうだ、と観衆の中から声が上がる。

「分かったらさっさと諦めて出て行け! お前らみたいな罰当たりが天下の往来に出てくるんじゃねぇ! まったく……お前たちがそんなんだから、女神さまが怒ってらっしゃるんだ。作物は実らない、水は濁る。風は家を倒し、大地は揺れる。分かっているのか、お前たちの罪が、この世界をダメにしているんだ。俺たちは真っ当に生きているのに、罪深いお前たちの所為で、とばっちりを食らっている――迷惑なんだよ! それを思いあがりやがって……」
「お、思いあがってなど……」
「……何ィ?」

 店先に立て掛けてあった木の棒を握りしめると、主人は肩に怒りを漲らせて少年へと迫った。

「貴様、口応えする気か! 名無しの分際で!」
「い、いえ。そんな、ただ、僕は」
「ええい、腹の立つ! 身の程を思い知れ!」

 言うが早いか男の腕が振り上げられ、棒が少年の頭目掛けて一直線に振り下げられる。咄嗟に頭を庇う少年。衝撃に体を強張らせるのが分かる。

 小さく舌打ちをして、京一は男と少年との間に割り込んだ。
 固めた手刀で、振り下ろされた棒の先を払う。力任せに棒を振り下ろした男は、バランスを崩されて一歩二歩とよろめいた。

「ッ……な、何しやがるッ」
「事情は知らないけどな。それはやりすぎだと思うぜ?」

 突然の闖入者に虚を突かれていた男の顔が、しかし一気に怒りで真っ赤に染め上げられる。

「金はあるって言ってるんだ。売ってやればいいじゃねぇか。一文でも儲ければ得ってもんだろう?」
「お前、正気か! こいつは名無しなんだぞ?!」
「名無し、ねぇ……?」

 地面にへたり込んだままの少年を見遣る。
 名無し――という事は、彼には名前が無いのだろうか。しかし、先の話によれば母親はいるようであるし、それなのに名前が無い、というのも可笑しな話だ。そう考えれば「名無し」というのは、何か他の事を現す蔑称の類なのだろう。
 だが、である。そんなものを京一は知らないし、例えそれが何を指すものだったとしても、先の男の暴挙を肯定するものではない。

「それがどうした?」

 折からの風に舞いあがり、体に纏わりついてくる青のマントを、煩わしく思いながら払いのける。主人は開いた口が塞がらないと言った風で、暫く口をパクパクとさせていたが、

「ど、どうしたって、あんた」

 一人はっと息を呑むと、何かに納得でもするかのように数度頷き。そうして、剣呑な目でもって京一を睨んだ。

「分かったぞ。さては、お前も名無しだな? 仲間の窮地を救いにきたんだろう」
「あんたの言う「名無し」が何を指すかは、俺にはよく分らねぇけど、俺には名前があるぜ。れっきとしたな」
「だったら言ってみろ」
「人に名前を聞く時は、自分からって習わなかったか?」

 京一の言葉に再び激昂しかけた主人であったが、思い直したものか握りしめた拳を下ろした。そして胸を張ると「わしの名はガンダルスティンだ」と、自信満々に言ってのける。
 たかが名を名乗るだけのことに、なぜそこまで偉そうにするのかは京一には皆目見当は付かなかった。この世界では由緒ある名前なのだろうか。一方の京一はというと、
「ガンダルスティン……聞くからに悪役じゃねぇか。やっぱりこのオッサン、悪者だな?」などと、いささか偏見の折り混じった見解を抱いていたのだが、まぁ、ファンタジーとは無縁の日本高校生としては、極めて妥当な見解ではあるだろう。

「さあ、わしは名乗ったぞ。次はお前の番だ」

 さあ、言えるものなら言ってみろ、と言わんばかりの勢いだ。

 最初から京一を「名無し」とやらに決めつけている、その身勝手で横柄な態度が気に障ったが、相手にするのも馬鹿らしいので素直に名乗る事にした。袈裟を相手に突き付けて――と思ったら、そういえば愛用の木刀はこの世界に来る際に無くしてしまったのである。調子が狂うな、と内心苦々しく思いながらも、

「耳の穴かっぽじって、よーく聞けよ。俺はなぁ、」

 だが、そこまで言ったとき。龍麻がついぞ口うるさく言っていた文句を思い出した。

 いわく、「本名を、誰彼構わず明かすのは止せ」。

 出会った当初から言われていた事なのだが、件の拳武館での一件があってから後は、特に強く言うようになった気がする。恐らく彼は本名から身元が割れ、敵に襲撃されるのを危惧して言っているのだろうと思うが、舞園のようなか弱い女性ならいざ知らず、自分はれっきとした大の男である。心配しすぎだ、と一蹴してきた。本当は龍麻の忠告には別の意味があったのだが――それを京一が知るのは、まだ先の事である。だから、このときも京一は脳裏を一瞬よぎった相棒の忠告を無視したのであった。

「――真神一のイイ男、人呼んで超神速の木刀使い、蓬莱寺京一!」  

 言い慣れた台詞を口にした瞬間、周りの視線が一気に自分に集中するのを京一は感じた。一人足りとも例に漏れず、視線を京一へと向けている。

 予想だにしない、あまりの視線の集約ぶりに、流石の京一も僅かたじろいだ。
 な、なんだ。俺は名前を言っただけだぞ?
 そうして、五六秒が過ぎただろうか。周りを取り巻いていた群衆の一人が、呟くように言った。

「「刻印」は出ない……嘘は付いていないみたいだ」
「だが、それなら何故「名無し」なんかを庇うんだ?」

 人々の密談めいたひそひそ声が、辺りを席巻する。

――嫌な感じだ。

 どこにも、どの世界にも差別はある。偏見はある。だが、どうやらこの世界には、それ以上のものが存在し、まかり通っているらしい。そして、そこには悪意を感じる。京一の最も忌むところだ。
 京一が眉を顰めていると、あ、と群衆の中の一人が声を出した。

「そいつ、あれじゃないのか」

 "青の崇拝者"。
 発せられた言葉に、どよめきが波紋を作って人々の間に広がる。

「まさか……話には聞いたことがあるが……だが、しかし」
「そんな罰当たりな」

 ある者は恐れを持って、ある者は忌避の念を顕にして。その単語を口にする。

「青の……何だって?」

 おい、お前――と。
 主人――ガンダルスティンは、しげしげと京一の身体を上から下まで見回した後、指を突きつけた。

「お前のその服、一体どういうつもりだ?」

 まさか服について文句を言われるとは思わなかったので、言葉に窮した。
 大体、どういうつもりも無いものである。気がついたら身につけていたのだから。

「どういうつもりだも何も、最初からこの格好だった――」
「な、なんだと?!」

 京一の言葉を聞くと、ガンダルスティンは顔色を変えた。恐れと驚愕、そして怒りの入り交ざった奇怪な表情を浮かべている。周りを見てみれば、誰もが同じ表情で異端の京一へと、その視線を向けていた。

「し、信じられん!! ただの噂だと――まさか実在していたとは!」
「おお、女神よ。許したまえ!」
「なんと怖れ多い事を」

 口々に好き勝手な事を言っている。意味が分からない。
 あおのすうはいしゃ、とやらの成す意味を推し量る事さえ出来なかった。多少派手とはいえ、このマント姿のどこに問題があるというのだろうか。ファンタジー世界では、むしろ標準的な装備だろう。
 しかし、群衆の異様な熱気は高まりつつあった。今にも京一へと殴りかかってきそうな危ない瞳をしている者までいる。排除しろ、追い出せ、駆逐しろ――などという物騒な声まで飛び交っている始末だ。

 こりゃあ、一戦やらねぇと、どうにもなんねぇかな。

 訳が分からないなりにも結論を出そうとした京一の前に、しかしリンがすっと割って入った。腰を落としかけていた京一に、リンが僅か首を横に振る。

「な、なんだ、お前もこいつの仲間か?」

 木の棒を握りしめ、肩を怒らせるガンダルスティンに対し、リンの応対は静かなものだった。前者が嵐に焚きつけられた大波ならば、後者は鏡面のごとく静かに澄み渡った湖面だ。

「彼は――キョウイチは俺の旅仲間です。けれど、"青の崇拝者"ではありません」
「ふん、どんなもんだか。仲間なら庇い合うだろう」
「ならば、女神に誓いましょう」

 リンは、静かに目を閉じて、すぅっと息を深く吸い込んだ。そして、通り一帯に良く通る声で、一息に言葉を放つ。

「"女神に誓って"、この者は"青の崇拝者"では無い」

 まるで言葉が力を持つかのようだった。リンの声があたりに広がると同時に、先まであれほど騒いでいた群衆たちが口を噤む。暴言も敵意も、全て収まり消えていく。口角に泡を飛ばしていたガンダルスティンも、ぐっと言葉に詰まった様子だった。
 リンは言い切ると再び深呼吸をして、今度は物腰柔らかく微笑んで見せた。しかし、先の気迫の余波は未だ場を呑んでいる。

「これで、よろしいですか?」
「ぐ、む……」

 リンの迫力に押されたものか、始終喧嘩腰だった主人が額に汗を浮かべて黙り込んでいる。周囲の取り巻きたちからも、何の反論も出てこない。
 驚きの眼差しでリンの後ろ姿を見ていると、不意に彼が振り返った。出会ってからと寸分違わぬ落ち着いた動作で、こちらへと歩いてくる。そうして、地に腰をつけたままの少年へと優しく手を差し伸べて立たせると、服に着いた埃を払ってやった。

「キョウイチ」
「……ん?」
「この場から離れよう。……君もおいで」

 手を握られた少年は、戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて素直にリンの言葉に頷いた。

「いいのかよ。このままで」
「波風立てないで済むなら、その方がいいよ」
「けどよ、そいつの買い物はまだ」
「後で僕が代りに買ってきます」
「……」
「まぁ、キョウイチがどうしても暴れたいっていうなら、僕は構わないけどね。この子と一緒に遠くから眺めてようかな」
「お前ねぇ」

 冗談です、冗談。さぁ、行きましょう。

 そうして少年の手を引いて、さっさと歩きだす。少々煮え切らないものを感じながらも、しかし京一はその後を追った。確かに、往来の真中でこの人数相手に一戦始めるとなると、手がやける。多少腹の立つ相手とはいえど、先のケルベロスのような化け物相手ではない。殺すわけにはいかないだろう。いくら異世界とはいえども。手加減しながら戦うというのは、全力で戦うよりも神経を使うものだ。まして、手馴れぬ銅剣となれば尚のこと。

 群衆の輪を抜け出そうと、人の波をかき分けていると、しかし背後から野太い声が待ったをかけた。ガンダルスティンである。

「ま、待て!」
「なんでしょうか。まだ、何か?」
「そいつが青の崇拝者では無い事は分かった。だが、お前はどうなんだ」

 リンの瞳がすっと音もなく細まる。気の所為か、瞳の奥から滲み出る深藍の光が、その色合いを濃くしたようだった。

「"女神に誓って"、僕は"青の崇拝者"ではありません――これで満足ですか」

 ふわりと、リンの身に着けるヴェールが砂風にはためいた。彼の瞬時出した闘気に反応したかのように。背が粟立つのを感じる。
 どうやら優男めいた外見の下には、激しいものが秘められているらしい。そういう所も、緋勇龍麻にそっくりである。

 ガンダルスティンなど、丸みの帯びた赤ら顔を、一気に青ざめさせていた。

「う……」
「貴方がたの価値観を僕たちにまで押しつけないで頂きたい。名無しを蔑(さげず)まないからといって、女神を敬わないという事はありません。旧約記の四章をお忘れですか。名無しは罪を背負う者。けれど、女神が心より愛する者。なればこそ、女神は名無したちに償いの世を与えた。名無しは、その愛に応えるためにも、過去の罪を心より悔い改め、身を清め、誠心誠意女神にお仕えせよ」
「むむ」
「子供でも知っている事ですよ。異変が続けて起こり、その責を誰かに押しつけたくなる気持ちも分からないではありませんが、貴方達の論理ならば、女神こそが異端の者、ということになりますね。それこそ最大の不敬なのではありませんか」

 何を。知ったような口を。
 との言葉が周囲よりぽつりぽつりと呟かれるが、どれも小さな泡の如く弾けて直ぐに消える。京一はこの世界の事を知らないが、それでも今のリンの言葉の方に理がある事は分かった。理は時に、力を圧する事もあるのだ。

 リンはガンダルスティンの反駁を待っていたようだったが、しばし待ってもその類の言葉が出てこなかったので、失礼します、と一礼して身を翻した。ガンダルスティンは顔を赤らめたり青ざめさせたりしていたが、やがてヤケクソともとれる捨て台詞を吐いた。

「貴様、逃げる気か! このわしにさも知ったかぶった演説をしおって、この童(わっぱ)が。どこの何者だ、名誉毀損で訴えてやる! さあ、名を名乗れ!」

 名誉毀損なんて、こっちの世界でもあるのかよ。
 変なところで元の世界とリンクを見せる世界の在り様に、そろそろ京一は困惑を通り越して、呆れを感じてきた所だった。大体にして、名無しがどうたらとか、女神様がどうのこうの、罪深い、恐れ多い……何にしても言う事が極論過ぎる。大げさすぎなのだ。

 幾ら世界の事情を知らないとはいえ、今のガンダルスティンの台詞は負け惜しみも良いところである。先のリンの調子ならば、適当にあしらうだろう――と思っていたのだが。
 リンは先と同じ怖い目をして、ガンダルスティンを見ていた。  

「お、おい、どうしたんだよ。リ」

 名を呼ぼうとした所を、すかさず手を翳され封じられる。
 訳が分からず目を白黒させていた京一だったが、ふとある可能性に思い至った。

――名前がバレると不味いのだろうか。

 元世界で、耳にタコができるほど言われた龍麻の台詞が蘇る。「誰彼構わずに本名を明かすな」。こちらの龍麻――リンも同じポリシーを持っているのだろうか。いや、その割には初対面の京一にあっさりと名を明かしていた。

 本名がバレルと不味い、他の理由。
 彼らの言うところの"名無し"である――いや、彼には「リン」というれっきとした名がある。それとも、リンというのは偽名か? しかし、偽名でも何でも、この目の前の男、ガンダルスティンを黙らせるには十分な筈だ。何の不都合がある。

 納得の行く解答を導き出せないまま、リンの様子を伺う。彼はしばしキツイ視線でガンダルスティンを射竦めていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「いいでしょう。僕は貴方の名誉を毀損した覚えはありませんが――貴方が必要というのであれば。僕の名は――リ」

 リンスレッド様!

 リンが名を口にしようとした、まさにその瞬間。
 馬の嘶きと馬蹄の音が沸き起こったかと思うと、数瞬後、群衆の上を一頭の白馬が飛び越した。驚きの声を上げる人々には目もくれぬ様子で、輪の中心に降り立った馬上の人物は、誰かを探してでもいるのか首を必死に巡らせている。ひらひらとした布の多くついた、リンと似た服装だ。だが、頭を覆うヴェールが無いので、顔がはっきり見える。

 額の中央で分けられた黒髪。細い釣り眉に、怜悧な光を宿す瞳。気難しそうな顔をしている。思わず挙げた声に、リンのそれが被さった。

「ヒスイ!」
「キサラギ?!」

 飛水流の末裔はどうやら――白馬の王子様、という位置付けのようである。



[続]