まず最初に。 ここは、日本では無いのだという。いや、それどころか地球でさえ無いのだという。 では、どこなのか。 女神「アスタルテ」が治める大地「フラスティール」、それがこの世界の名前なのだという。そして、目前に広がる果てしない砂漠は、大陸中西部に広がる「ジュラ砂漠」。先に見たケルベロスの他、巨大アリクイなどが所狭しと蠢く、旅人も恐れる難所だとのことだ。 ここまで聞いて、正常な思考回路を保てるやつがいるのなら教えてほしい。 と、京一は思う。 「……本当に知らないんですね、この世界の事」 そして京一の目の前で、驚いた顔をしているこの優男(やさおとこ)。 どう見ても緋勇龍麻その人なのであるが、決して緋勇龍麻では無いのだそうである。京一は訳の分からなさ具合に、髪を掻き毟りたい衝動に駆られた。 「悪い夢だと思いたいぜ……なぁ、本当にお前ひー……龍麻じゃないのか?」 「そんなに似ているんですか、俺と、その「タツマ」さん?」 似ているとか似ていないのレベルではない。 声も背格好も、顔も。本人そのものである。そっくりさんとか双子とかの域を越えている。敢えていうならばクローンに近いかもしれない。 「クローン? クローンって何ですか」 どうやら、こちらの世界にはクローンは存在しないようだ。説明できるだけの知識を京一は持っていない。それこそ、薀蓄博士の緋勇龍麻大先生に代弁して頂きたい所だ。 「まぁ、いいや……。悪かったな、俺も混乱しててよ。お前の名前は「リン」だったな。苗字は無いのか?」 「ミョウジとは?」 「苗字は、苗字だよ。「リン」っていうのは名前の方だろ? その前につくものは無いのか?」 「「キョウイチ」さんの世界では通常の名前の前につく、もう一つの名前があるんですね?」 初めて聞いた概念だったのだろう、京一の言葉にリンの瞳が輝く。まったく、知的好奇心旺盛なところまで、そっくりである。 「ああ。と、その前に……敬語は止めてくれ。物凄く違和感がある」 「あ、そうか。俺とタツマさんは似ているんですもんね、それは違和感もさぞかし……と、分かったよ。これでいい、キョウイチ?」 「ああ、頼む」 そうでもしてくれなければ、ますます頭痛が酷くなりそうだ。 「ということは、最初に名乗ってくれた「ホウライジキョウイチ」というものの前半部分、「ホウライジ」というのが、そちらの世界での「ミョウジ」に当たるわけだね」 「その通り」 「どういうルールに従って付けるものなの?」 苗字の概念が無いものに、苗字を説明するためにはどうすればよいのだろう。 「家族の名前みてぇなもんだよ。母親、父親、姉、みんな同じ苗字をつける」 「血縁関係にあるものが共通して名乗る名前、か。ということは――、王族の称号が一番近いかな?」 王族? ますます持って、ここが日本では無い事が身に染みる。 「名前の前に、名が付くのは唯一王族の者だけなんだ。こちらでは。そして王族の称号こそが、国の名前となる」 「なんだぁ? するってぇと、王様の苗字が国の名前になっちまうのか」 この先の、と砂漠の向こうをリンが指差す。 「「ミサト」国も……」 待て待て。 「はい?」 「今、何ていった」 「……ミサト国?」 「……」 王様の苗字がそのまま国の名前になる――ということは。まさかとは思いつつも、京一は問わずにはいられなかった。 「もしかして、そこの王女さま――葵って言わねぇ?」 「え、どうして分かったの? 確かにミサト国の第一王女さまは「アオイ」様だけど」 美里が王女さま。まぁ、真神でも聖女といわれてるくらいだしなぁ……とそんな場合ではない。なんだ、これは。まさか龍麻そっくりのリンに引き続き、美里そっくりの王女様まで出てくるのか。 「もしかして……タツマさんと同じく、キョウイチの知り合いだったりする?」 この勘のよさまで龍麻そっくりだ。こちらが一を言えば、向こうは十を知る。これで別人だっていうんだから、頭がおかしくなりそうだ。項垂れたままの京一を、リンがまぁまぁ、と執り成した。 「落ち着いて、キョウイチ。確かに、それは混乱するし、びっくりするとは思うけれども……」 うーん、少し整理しようか。 と、龍麻ならぬリンは人差し指をついと立てた。 「キョウイチは、ここの世界ではない――「チキュウ」という世界の「ニホン」という国に住んでた学生――ええと、何だっけ「コーコー」」 高校生。 この世界には、高校や大学といったものは無いらしい。学習施設はあるが、年齢別にクラス分けをするだけで、それに対する個々の名称は無いとのことだ。 「「コウコウセイ」をやっていた。ご飯を食べようと屋上に出たら、ジュラ砂漠の真ん中に立っていた。そしてそこに俺が偶然通りかかった――」 全くその通りである。寝耳に水も良い話で、一体全体何がどうなってそうなったのか、小一時間ほど問い詰めたいところだが、その相手も見つからぬ状態だ。おまけに帰ろうと扉を――さきほど開けたばかりである筈の「屋上の扉」だ――を探してみたものの、姿かたちさえ見当たらない。 この状況、途方にも暮れようというものだ。 「そして。よりにもよって俺の姿かたちというのは、キョウイチの友人とそっくりで、おまけにミサト国の女王まで、知っている名前だったと」 返事をしない京一を見て、リンは苦笑した。 「まぁ、起きてしまったことはどうしようもないよ。ほら、気持ちを切り替えないと。キョウイチの境遇に関しては、俺も理解したからさ。そうだね、これからの事を考えよう。キョウイチはどうしたいの? やっぱり元の世界に戻りたい?」 帰りたいに決まっている。例え、汚れた空と澱んだ風が待っているのだとしても、そここそが自分の居るべき場所なのだから。しかし京一は、そこではたと口を噤んだ。不思議そうにリンが首を傾げる。 「どうしたの、キョウイチ」 「いや……随分飲み込みがいいと思ってな」 普通、こんな話を聞かされたらいぶかしむものだろう。当の京一でさえ、夢ではないかと疑ってやまないのだから。リンは一瞬きょとんとした顔をした後、照れくさそうに笑った。 「俺、そういう話好きなんだ。あ、勘違いするなよ? 別に面白がってるとかそういうのじゃないから。この世界の全てを知ってるわけじゃないしね。何が起こったって不思議は無いと思う」 「けど、俺が嘘をついてるとは思わないのかよ?」 「嘘を付くなら、もっと現実味のある嘘をつくよ。それに嘘をつくのは、何らかのメリットを求めるものさ。この場合、キョウイチには一体何のメリットがある?」 「お前を騙して楽しんでるのかもしれないぜ?」 「キョウイチは、そんな事する人じゃないよ」 あっさりとそんな事を言って、リンが屈託無く笑う。出会ったばかりの人間に対して、気を許しすぎでは無いのか。 「ともかくね。俺の方にはキョウイチの話を疑う根拠は何も無いから。で、キョウイチは元いた世界に戻りたいよね?」 「まぁ、そりゃあな……」 「うん。だったらこのまま、ミサト国を目指してみようよ」 特に深く考えずにリンの歩みと合わせていたわけだが――、ミサト国とやらを目指していたのか。美里が王女であるという、国。リンは上空に広がる青空へと視線を飛ばす。クリーム色をしたヴェールの下で、深い藍色をした瞳が、色合いを深くしていた。 「俺も昔行った事がある。とても綺麗な国だよ。花は道に咲き誇り、人々は美しい音楽に酔いしれ、楽しげに談笑を道端で交わす。この世界では有数の貿易国だから、物も人もたくさん集まる。それだけ情報もね。大陸きっての情報の宝庫、王立図書館に行けば、キョウイチが元の世界に戻る方法が分かるかもしれない」 そう言って微笑みかけ、リンは軽く京一の肩を叩くと歩みを再開した。 先導して歩くリンの後を付いていきながら、肩を落とす。視線の先に、折からの強風に煽られた蒼い布きれが靡いた。ケルベロスと対峙した時、足を絡めとられたものだ。 何時の間にか身に付けていた、足元までもある丈の長いマント。海の底のような深い藍色で染め上げられている。 気づいて直ぐに脱ごうとしたのだが、リンに止められた。砂漠にいる間は、マントは必要不可欠なものだと。気温の変化が激しいから、体温の恒常性を保つためにも身に付けていた方がよい。人体には有害な毒を持つ虫も飛んでいるから、それから身を護るためにも、と。だからこうして着続けているわけである。 歩きながら空を見上げた。青天井に、強く照りつける太陽が張り付いている。マント越しからでも、じりじりと肌を焼く日差しの強さ。日本では経験のした事のないものだ。 何故こんな事になったのかと、考えても埒が明かないのは分かっている。だが、長年使い慣れた愛刀はいずことも無く姿を消し、代わりに身に付けていたのは蒼のマントと銅剣。耳にした事も無い世界の名前、女神の名前。だが時折耳にする聞きなれた固有名詞。目の前の相棒としか思えぬほど似た他人。 ここは一体どこなのか。夢か現か。 けれど、今は前へと歩くしかない。それしか選択は残されていないのだから。気を引き締めるように頬を打つと、京一は砂を踏みしめてリンの後を追った。 |